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2009年1月

拝啓 15歳の僕へ

http://jp.youtube.com/watch?v=-y0_fDhzg5U

拝啓15の僕

きみはおとなが嫌いですか。

いつかきみも、おとなであることの自由さと、自由ゆえの責任の重さを知るとおもいます。
おとなは、きみが思っているほどおとなではありません。
きみは、おとなの嘘や汚さ、ずるさ、弱さを憎むとおもいます。
それはきみが、おとなに対して、自分が目指す完成した姿を望んでいるからだとおもいます。
でもおとなだって、今迷ったり悩んだりしているきみと同じこころを持ったまま、もっと複雑な世界を生きているのです。
おとなは、おとなでいたいとおもうからこそ、自分の弱さを認められないのかもしれません。

きみを傷つけた人たちをかばって言い訳をしたりはしません。
きみが傷ついたということはまぎれもない事実です。
けれども、今のきみを許すように、いつか、今きみが嫌っているおとなの弱さを許せる日がくるといいなと思います。
それは、いつかきみがおとなになった時、やっぱり思うようにならないままの自分自身を許してあげることに繋がっていくのだと信じています。




拝啓
この手紙読んでいるあなたが
幸せなことを願います

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あかない鍵はない

会社で、仕事の終り間際にぼけっとしていて、デスクに鍵を入れたままインロックしてしまった。
それはもう大騒ぎで、会社の社長をはじめ、上司も同じフロアのひとも総動員で、わたしのデスクをひっくりかえしたり、ひっぱったりしてくれたけれど、思ったよりデスクの鍵は頑丈だった。
おまけにデスクの中には、財布も、家の鍵も、携帯も入っていた。
一時間が経ち、鍵屋さんが鍵を開けに到着したけれども、デスクは頑として開かない。
もう一時間して、哀れデスクはドリルの強行突破に見舞われ、無事わたしは家に帰ることができた。

わたしは、といえば、そりゃあもう、恥ずかしくて申し訳なくて、ずっとうろうろうろうろしながら謝ってばっかりいたのだけれど、皆面倒がらずに(本当は面倒だったのだろうと思うけれど)、最後までああでもないこうでもないと言いながら見守ってくれて、本当にありがたかった。
鍵屋さんがドリルの強行突破を決めるまえに、自分の会社に確認の連絡を入れに立ったときなどは、社長自ら鍵屋さんのピッキングツールを拝借して、鍵穴をぐりぐりやってくれたくらいだ。
もちろん鍵はびくともしなかったけれど。

明日会社にどんな顔をしていったらいいのかと、死にそうな気持ちになっていたとき、思わぬ電話やメールがぽんぽんと入ってきた。
それはどれも全然違った人からの、全然違ったはなしだったけれど、どれも今のわたしを励まして元気付けてくれているみたいなタイミングだった。

その日、最後にかかってきた電話口から聞こえた声のトーンに一瞬はっとして、電話に出たことを後悔しかかったけれど、すぐにいつもの自分に戻って今日の大騒動を話して聞かせたとき、わたしの鍵が、開いた。
開かない鍵はない。
それは、自分が強く強く開けたいと思っていれば、いつかは開くもの。


ところでこのおっちょこちょい、なんとかならないだろうか。
随分昔から、切実にそう思っているのだけれど。

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そばにいる

寝る前にはいつも、思いつくままに「愛しているよ」、「大好きだよ」と言葉を掛け合っていた娘とわたし。
ある日娘から、「このことばを、うちのおやすみのあいさつにしようよ」という提案があった。
提案だなんて、随分成長したものだなあ。
ちょっと驚いた。

その言葉とは、娘と一緒に観た映画、リロ&スティッチの中に、何度も出てきた台詞。
『オハナは家族。家族はいつもそばにいる。何があっても。』

まだ小さな娘は、一度観たきりの映画のこの言葉に、感じるものがあったらしい。

OHANAとは、ハワイの言葉で「家族」のこと。
血の繋がった家族だけでなく、大切な友人や仲間もOHANA。
娘は、わたしにとってかけがえのないOHANA。
わたし達は、家族だけでなく、血の繋がりのない沢山の人に支えられて暮らしてきた。
友人と家族の垣根ってあるのだろうか、と思うような出会いもあった。
わたし達はいつも、あたたかな人の輪の中で暮らしている。

そんな想いをはっきりと伝えたわけではないけれど、娘にもちゃんと伝わっているのだな、と思った出来事。

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いつも子供のように泣いたり、笑ったり、怒ったり。
そんなわたしでも、色々な出来事をくぐりぬけてきた中で、心が凪ぐこつのようなものを覚えた。
それは、自分で選んでいる、という感覚をもつ事。

今自分が抱える感情が、誰かのせいや何かのせいで生まれた、と思うことはある意味とても身軽。
その出来事の全てを、私自ら動かすことができなかった、という理由に委ねることができる。
でも同時に、自分はその事柄に対してとても無力な存在となり、行き場のない想いはその場に留まってしまう。

いくつかの割り切れない過去や現在に向かい合った時、気がついた。
とてつもなく大きな波にさらわれそうな時も、自分の心は必ず何かしらの選択肢を持っている。
酷く受け入れがたいことではあるけれど、既に起きてしまった事ですら、その後に自分が選んできた感情の積み重ねで見え方が変わってくる。
その事に気づくと、全ての出来事への責任が、受け取り手であるわたし自身にのしかかった。
その代わり、後々にどんな想いを残すことも自分次第となる自由を、みつけた気がした。

今この瞬間も、わたしは選んでいる。
何かに傷ついていると感じることも。
誰かに愛されていると感じることも。
今が心忙しく、そのくせ幸せであることも。
何かを持ち続ける事も、その代わりに何かを捨てることも、自分が選んでいる。
そうして、どんな大きな出来事もいつか、古い友人を想う様にあたたかく想えることを知っている。

根っからの瞬間湯沸かし器なわたしは、今日も泣いたり笑ったり周りをはらはらさせるのだと思う。
感情を心の内に納めきれず、黙っていてもどこかで丸見えになるわたし。
そんなわたしを見守る友人達の気持ちを思うと、本当に申し訳なく思う。
けれども、そうやって大騒ぎしているうちに、きちんと自分自身で凪ぎの日を迎えるから。
またか、仕方がないなあ、と適当に受け流しながら、信じて任せて欲しい。

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凛とした


という言葉は色々な事柄を形容するのに使われる。
例えば今朝のような冬の厳しく澄んだ空気。
背筋の伸びた、美しい姿。
きりりとした心のありかた。

「Cool Struttin'」
いつもその歩く姿を「ぽてぽて」と形容されるわたしが、ジャケットに惹かれて買った一枚。
ソニー・クラークのとても有名なアルバムなのだけれど、中身も知らずに買って以来、幾度の引越しにも耐えてわたしのCD棚にある。
ぽてぽて歩くのは遺伝らしく、よく見れば、母も、妹も、わたしの娘も同じような歩き方をしている。
幾度と無く気にしてはみたけれど、どうしてもぽてぽてになってしまうことはもう諦めた。
けれども、こころだけは凛としていたい。
美しいジャケットを見ながら、いつもそうおもう。

生き方はいい加減がいちばん。
肩をはらず、そのときの風にまかせて、ゆるゆると、「いい、加減」に。
肝心なときだけでいい。
しゃんと背筋をのばし、凛として立つ。


見上げると、通りを歩く人の脚がロー・アングルでちらちらと見える。ちょうどソニー・クラークの『クール・ストラッティン』のジャケット写真みたいな光景だ。
「遠い太鼓」村上春樹

クール・ストラッティン

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その光景

いつからか、わたしの頭のなかにこびりついて消えない光景がある。

時間は、薄明かりをのこした夕暮れのころ。
それは、大学から駅へと伸びた、まっすぐな道。
わたしが通っていた大学は、随分と辺鄙な場所にあった。
駅まで続く広い通りは、周りに高い建物もなく、背の低い商店や空き地、細い枝の街路樹に囲まれている。
二階建ての小さな駅が、広い空の中ぽつんと明かりを浮かべている。
学校帰りだったのか、駅に向かって歩いていると、目の前に広がる薄昏を、一本のあかく太いひかりの尾がよぎった。

夢を見ているような一瞬だった。
それは、ながくながくくっきりとした尾をひくと、ぱあっと花火のように散った。
わたしの周りにいたまばらな通行人が、一瞬あっけにとられたあと、ざわざわと騒ぎ出した光景が目に浮かぶ。

これは本当にわたしが見た風景なのだろうか?
映画で見た彗星や、たまたま本で見つけた写真、そういったものが古い記憶と混ざってしまったのかもしれない。
いままで何度もその光景が蘇ったのだけれど、随分時が経って細部があやふやになり、そのとき一緒にいた人も思いだせないままに、確かめることもせずにきた。

先日流星群のはなしをしてくれた人に、ふと思い立ってこの記憶の話をしてみた。
するとその人が、それは本当にあったことだとおもいますよ、幸運でしたね、と教えてくれた。

火球、と呼ばれる、とても明るい流れ星がある。
その特別あかるい流星をみたひとは、誰もが一瞬じぶんの目を疑うくらいの。
その人も、そんな光景にめぐり合えることを期待して、流星群がやってくるたびに出かけてしまうらしい。

長いときを経て気づいた幸運は、その真偽のほど以上にわたしをどきどきさせた。

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一杯のコーヒー

http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-3...

一杯のコーヒーは、人の心も温める。

アメリカの心理学の教授がこんな発表をしたことが、昨年ロイター通信を通じて世界に発信された。

あたたかいコーヒーと、冷たいコーヒーを手にした被験者が、他人に対してどんな風に感じるかを調べたもの。
体が暖かいと、他人に対しても寛容になったり信頼が高まるという結果が出たことが、報じられている。

じゃあ、あたたかい肉まんでもいいじゃない。
とも思うところだけれど、これがコーヒーだったことで、きっと余計に素敵な話になったのだと思う。
とても寒い夜、ほかほかと湯気の立ったコーヒーから立ち上る香りは、カップのあたたかさ以上に人を幸せな気持ちにする。

こんなことを大真面目に実験して発表した学者さんがいること、その研究を世界中の人が暖かなきもちで受け止めた、という事実に、心があったかくなる話。

今日のような夜は、あったかいコーヒーを、のもう。

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本当に大切なものは

目には見えないんだよ。


がんばれ。

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めでたいはなし

今年の初詣のときにひいたおみくじ。

開いたら、凶。

手の中に隠したまま、笑顔で義理の弟に、「とりかえない?」と聞いたら、いいですよ、と笑顔で取り替えてくれた。
なんて素直な。
凶。
謀られた。
そこへ、母がやってきた。
凶が出ちゃった!と騒ぎながら。

初詣に行った、大人5名、子供1名のうち、凶が3枚。
確立二分の一だもの、たいしたことはないような気がしてきた?
どうやら今年は去年よりもっといいスタートをきったようだし。

ひとつ、いい話を聞いた。

凶、という字は、口の上の部分が開いていて、そこにメが入っているでしょう。
だから、メが出たい→めでたい。

なるほど、ありがとう。

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明るい夜

東京の空は、明るすぎる。

縁日で買った飴玉のように艶やかな色をまとい、
舌が痺れるほど甘く、
どこまでも深い漆黒を抱え夜をあかす大人が大好きなお菓子。

全てのスイッチをぱちんとひねる。
身じろぎもせず、目を凝らす。

どこまでも深く、深く、底のない夜に身をまかせる。

そのはるか先。
静かさと暗闇の中にしかみえないひかりが、
ずっと前からそこにある。

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無くて七草

無くて七癖。

爪をかむ癖。
マニキュアを塗りたいと思うようになった頃、気づいたら直った。

写真にうつる時に首をかしげる癖は、子供にも遺伝したらしい。

誰かと話しながら歩いているとき、だんだんとそっちへ寄っていってしまう癖。
昔はよく、友達を壁際に追い詰めた。

よく転ぶ癖。
最近私よりよく転ぶ友人がいるから目立たない。

泣き癖。
たくさん笑っても涙が出るので、よく心配される。

何でも触りたくなる癖。
会社の受け付けにある大きな鏡餅にいたずらしたい。

何かを考えているときに煮詰まると、一旦保留にして他の事を考え出す癖。


そう。
そもそも何でこんなことを考え出したのかといえば、
今さっき、七草を買い忘れていた事に気づいて、買いにいこうか、夜中だし寒いから止めようか、でも七日の朝は一回きりだし、

そんなことをぐるぐると考えていたせいだと、やっと思い出した。

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たしかなこと

たった一本の木を見て、

年取った老人みたいだとおもう人も居れば、
生命に満ちた青年のようだとおもう人も居る。

神様の傍に立ったようなおそれを感じる人も居れば、
母の傍にいるようなやすらかさを感じる人も居る。

どの感じ方も間違ってはいない。
どの感じ方も唯一つの答えではない。

ひとつだけ、これだけは間違いなくたしかなことは、自分がそれを見てどう感じたか、ということ。

そして、見る人によってどんなすがたにも見える、その全ての要素が一本の木にひめられているということ。

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隠し絵

隠し絵
コンタクトレンズが無いと化粧もできないくらい近眼だから、
肝心なものを見逃してしまう。

もうあと二、三歩下がってみれば、見えていた筈なのに。

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ゆらぐ たゆたう
みちびく ゆるす
つつむ まどろむ
あたえて いのち

わらう はじける
きらめく にげる
はねる くすぐる
はだかの こども

うねる ゆさぶる
からみあう まじる
みちて こぼれる
よくぶかな けもの

とどろく わきあがる
のみこむ うばう
まきこんで しずんでゆく
はじまりで おわり

凪いで また はるか
なみまにひらめく 月のひかり

みちる 潮の気配
わたしのからだに

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新年夜遊び情報

もう普通の遊びでは物足りないあなたへ、大人の夜遊び情報。

1月3日の夜から4日未明にかけて表に出ると、北東の空を滑り落ちる沢山の星が見える。
しぶんぎ座流星群。
年間を通して見ることができる流星群のなかでも、三本の指に入る。

極大は3日の午後10時。
月が沈んだ11時ころが一番の見どころで、条件が良ければ一時間に50個もの流星が見られるらしい。

元旦の深夜、お風呂上りに屋上にあがり、星を見ていたら、あまりに寒くてびっくりした。
防寒はしっかりと。
マフラーと帽子と、あったかいコーヒーも持って出よう。

東京の夜は、どこへいっても明るい。
3日の晩は、こっそり家を出て、バイクで河原へ向かう予定。
ところで・・・

北東ってどっち?!

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初詣

実家に帰って、飽きるほどのんびりしたので、すっぴんでぶらぶらと近所の神社へ初詣に出掛けた。

向こうから、初詣の帰りらしき親子連れが歩いてきた。
優しそうな旦那さんと、我が子と同じくらいの年頃の娘、手を繋いでゆっくり歩く奥さん。

旦那さんが、こっちを見ながら、にこにこしている。
てっきり着物姿の娘をみているのかと思っていたら、すれ違い様に気がついた。

小学生の頃の初恋の人だった。

何にも言わずにすれ違ったけれど、幸せそうな顔を見て、思わぬお年玉をもらった気分。
心がほかほかした。

それから、小学生の頃から全然変わってない自分に気づいて、嬉しいような、がっかりしたような気分で参拝の列に並んだ。

いいお正月。

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ベルリン・天使の詩

新しい年を迎えて、思い出すこの映画。

冒頭から繰り返す、ペーター・ハントケの詩が印象的。

『子どもが子どもだったころ、こう思った
なぜ、ぼくはぼくなのか
なぜ、ぼくは君じゃないのか
なぜ、ぼくはここにいて、そこにいない
時の始まりはいつ?
宇宙の果てはどこ?』

東西の壁に隔てられた、寒々しいベルリンの街を見下ろす天使。
天使達は、人間の傍観者として存在する。
永遠の命と過去も未来も見通す目を持ち、人間の心の声を聞くことができるかわりに、その目に映る景色はモノクロームで、その声は人間には届かない。
荒んだ人間達に心を痛めても、触れることも、語りかけることすらできない。
絶望的なほどに、無力な存在。

『永劫の時に漂うよりも僕を大地に縛り付ける自分の重さを感じたい。』

天使が天使でいることをやめたとき、空から堕ちた天使の目に映る世界が鮮やかに色を帯びる。
ベルリンの壁に描かれた落書き。
流れる血の赤。
永遠を捨てた元天使は、平凡で限りある人生の中で、いままで見守ることしかできなかった人間に触れ、生きた存在として傍に寄り添うことを選ぶ。


あけまして、おめでとう。

私が笑っていられるのは、天使でも神様でもない、あなたのおかげです。
新しい年も、笑ったり泣いたりしながら、毎日歩いていこう。

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